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見江山 大蔵院の歴史(詳細)

大蔵院の開山・開基

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明石の禅寺 大蔵院の開山は 中巌円月 禅師
開基は 赤松祐尚公 と伝わっています
.
記録によると
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開山 中巌円月禅師は
正安2年(1300年)1月6日に
鎌倉で誕生され
応安8年(西暦1375年)1月8日
建仁寺にある妙喜世界で示寂されました
.
対して
開基 赤松祐尚公は
赤松則村(円心)の孫である
赤松義則の子で
赤松満祐の弟であることは
多くの記録にありますが
誕生年月の記録は残っていません
.
状況から推測すると
赤松祐尚公の兄で
嘉吉の乱を起こした
赤松満祐公は
誕生が1381年であるため
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赤松祐尚公は
1381年以降に生まれたと思われます
.
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一方
開山 中巌円月禅師が亡くなった
応安8年(西暦1375年)です
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応安8(西暦1375)年は
赤松満祐公が生まれる前であり
開基 赤松祐尚公は
生まれておらず
辻褄があいません
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これを解消するのが
勧請開山です
.
 勧請開山は
本来の創建者でない徳の高い僧を
お寺の開山(初代住職)とするモノです
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臨済宗や曹洞宗などの禅宗では
勧請開山として
開山の師匠や 有徳の僧を
拝請する例が 多くあります
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例えば
京都五山の一つ
萬年山相国承天禅寺
相国寺
などなど
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相国寺では
室町幕府三代将軍
足利義満公が
夢窓国師を勧請開山として
創建されています
.
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勧請開山では
開創時における
開山となる僧の生死は
問われません
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明石の禅 大蔵院も
これに習い
赤松祐尚公が
中巌円月禅師を 勧請開山として
開創されたものと 思われます
.
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大蔵院が開創された年

当山の開創についても
記録が残っておらず
推測するしかありません
.
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実は 大蔵院に伝わる口伝があります
それは
次のようなものです
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嘉吉の乱の際
出陣した赤松祐尚公の陣屋を寺院とした

これが
大蔵院のはじまりである

.
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明石市教育委員会が立て
山門前に立つ看板にも
この趣旨が書かれています

大蔵院 立て札の写真

上記の看板には 誤りがあります
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赤松円心(えんしん)公の孫(まご)
赤松祐尚(すけなお)公は・・・

と記載していますが
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赤松祐尚(すけなお)公は
赤松円心(えんしん)公の
孫(まご) ではなく
ひ孫(まご) にあたります


赤松則村(円心)

赤松 則祐(あかまつ のりすけ/そくゆう)
その他

赤松 義則(あかまつ よしのり)
その他

赤松 満祐(あかまつ みつすけ)
赤松 祐尚(あかまつ すけひさ)
その他

赤松氏とは コトバンク

嘉吉の乱について
少し説明します
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嘉吉の乱とは
現役の将軍が重臣によって暗殺される
前代未聞の事件です
.
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乱のあらましは
以下のようなものです

嘉吉元(1441年)年6月24日
.

.
足利幕府の成立に助力し
播磨・備前・美作守護大名である

赤松家
.
その当主であり
大蔵院の開基 赤松祐尚公の兄である
赤松満祐公

結城合戦の祝勝の宴として
室町幕府6代将軍足利義教公を
自宅へ招き 暗殺しました
.
足利義教公というのは
専制的な強権政治を行っていました
.
有力守護や公家を圧迫したり
意に沿わない者を次々に誅殺するなど
理不尽な仕打ちを行っていたので
.
義教の治世は
「万人恐怖」と呼ばれました
.
そのため
将軍でありながら その死は
「自業自得」とまで記されました
(伏見宮貞成『看聞日記』)
.
.
幕府は混乱しますが
その年の9月に 追討軍を編成

赤松家を討つことになりました

赤松家は 各地で戦い抵抗しましたが

城山城(兵庫県たつの市)で
滅ぼされました
.
この一連の出来事を
「嘉吉の乱」と言います

.
.
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嘉吉の乱に関する
当時の資料はいくつかありますが
.
大蔵院の開基
赤松祐尚公についての記述は
幕府軍と戦ったとするものから
嘉吉の乱の直前に
亡くなっていたとするものまで
様々です
.
今となっては 
どれが本物が 調べる方法もありません
.
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後世につくられた 大蔵院の過去帳には
開基 赤松祐尚公は
嘉吉の乱が始まる直前の
嘉吉元年の5月に亡くなったと記録されています
.
手元に資料がないため、不確かですが
赤松家の菩提寺の記録にも
そのような記録があったと記憶しています
.
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大蔵院の創建は
赤松祐尚公が成人されたであろう
1400年代前半から
嘉吉の乱が起こった
嘉吉元(1441年)の間であろうと
当山では 推測しています

遺跡 赤松祐尚夫妻の墓の写真
遺跡 赤松祐尚公夫妻の墓


大蔵院 歴代住職


開創後から約250年間
この間の記録が失われています

この事について
大蔵院の第8世、大解宗脱和尚の
「前住統紀」に こうにあります  

開山と中興開山の間が
260年程隔たりがあるが
その間當院は廃退して誰が住職として
ここに住したか判らず
又歴代の位牌も無い
又、風評も無い

.
というのも
天下が荒れて戦争などが起こって
万民も行方が判らなくなり
神社仏閣も多くは破壊され
修理も出来ないままになっている

.
ついに
寺院が粗末なあばら家となり
民家と同じようになってしまっている状態が続いていた

.
.
.
記録が失われた間も
住職は居たようですが
記録がありません
.
嘉吉の乱から約250年が経った頃
天翁慶祐座元禅師の名が
記録に現れます

天翁禅師は
出自記録こそ無いものの
示寂については
寛永12年(1635年)3月15日と
記録に残されています

そこで
寺を中興された天翁慶祐座元禅師を
中興開山 かつ 大蔵院の2世
として扱っています
.
これ以降は
記録が続いています
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令和となった西暦2022年 現在には
第18世まで
大蔵院の歴代住職の記録は
続いています



ちなみに
東京大学 名誉教授 玉村竹二教授が
東大を退官論文で
大蔵院の歴史を研究されています
以下にリンクを貼っておきます

<論説>
播磨大蔵院考 玉村、竹二
東京大学史料編纂所報第4号 1970.3


歴代住職 一覧

開山 中巌円月禅師
( 応安八年一月八日 没)
中巌円月 木造の写真

第二世 天翁慶祐和尚
( 寛永十二年三月十五日 没)
中興開山
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第三世 得岩宗鑑和尚
( 慶安四年四月七日 没)
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第四世 舊田智藍和尚
( 天和二年一月七日 没)
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第五世 蘭州祖秀和尚
( 正徳二年七月八日 没)
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第六世 南嶺宗常和尚
( 享保十四年十二月三日 没)
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第七世 法岩宗珉和尚
( 延享元年四月十五日 没
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第八世 大解宗脱和尚
( 宝暦十二年九月十四日 没)
白隠禅師と交流在り
  「禅語俗語解」の作成
「中巌禅師語録」
「東海一漚集」の出版
その他、色々な書物を残す
.
第九世 秀峰宗逸和尚
( 寛政四年二月十八日
没)
第八世 大解宗脱和尚と共に
   「禅語俗語解」の作成
 「中巌禅師語録」
「東海一漚集」
などの出版
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第十世 鳳州宗眼和尚
( 文化六年十二月十一日 没)
平成末年まで存続していた旧本堂の建立
建替え前の本堂の写真 

第十一世 春荘和
(~ 弘化二年六月二十八日 没)
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第十二世 固道和尚
(~ 明治三年三月十六日 没)
   コレラが流行ったため、御札を配る
記事はこちら
  明石藩家老の池田氏(当院 檀家)から出家された
澤栄和尚と交流
  澤栄和尚より山門が 寄贈される
山門の写真 卻瘟神呪の印刷物
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第十三世 月窓和尚
(明治二十六年八月十五日 没 )
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第十四世 誠洲紹實和
( 昭和十二年八月二十日 没)
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第十五世 東冥和尚
(大正四年七月一日 没)
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第十六世 宗峰恵超和尚
(昭和六十三年四月二十八日 没)
  当時の南禅寺管長 柴山全慶禅師を招き
開山 中巌円月禅師の
六百年大遠忌を挙行
鐘楼を建築
茶室を建築
鐘の写真
茶室の写真

第十七世 藏峰憲宗和尚
(平成十九年五月四日 没)
現存の庫裏を改築・増設
庫裏の写真
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第十八世 隆峰徳宗和尚
(2022年 現住)
令和元年、本堂を再建
棟上げ式の写真

般若心経
大悲呪
昔の本堂の様子と 新本堂を再建する様子

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