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白隠禅師坐禅和讃 現代語訳

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江戸時代
駿河(静岡県)の原という宿場町から
諸国を遊歴し
広く 禅を布教された禅僧がいました

禅僧の名は 白隠慧鶴

臨済宗の修業体系を整え
後進を指導され

各地での講演を初め
書画で禅の境地を表し

他宗に比べ 衰退していた
臨済宗を中興されました

駿河には過ぎたるものが二つあり
富士のお山に原の白隠
と謳われる程でした
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白隠禅師坐禅和讃とは
白隠禅師が
禅を人々に伝えるために作られた
七五調の和讃です



和讃とは

お経といえば
サンスクリット語パーリ語などのインドの言葉や
漢文といった中国の言葉が多い中
日本の言葉で記された仏教讃歌を
和讃(わさん)といいます

仏教歌謡の一種で,
仏・菩薩の教えやその功徳,
あるいは
高僧の行績をほめたたえる讃歌。

梵語による梵讃,
漢語による漢讃に対して,
日本語で詠われるためこの名がある。

その嚆矢(こうし)としては,
平安中期に現れた《註本覚讃》があげられる。

天台の本覚論を七五調で詠ったもので,
の作といわれる。

その後,天台浄土教の人々によって
盛んに和讃が制作されはじめる。

当時の作品として明証のあるものは少なく,
詳細は判明していないが,
法会の中で,声明(しようみよう)の旋律に乗せて諷誦したのが
人々の共感を得たらしい。

出典 平凡社 世界大百科事典







はくいんぜんじ ざぜんわさん

白隠禅師 坐禅和讃




衆生本来仏しゅじょうほんらいほとけなり

みずこおりごとくにて

生きとし生けるモノは 本来 仏である

それはちょうど 水と氷の様なもので




みずはなれてこおりなく

衆生しゅじょうほかほとけなし

水を離れて 氷が無い様に
生きとし生けるモノの外に 仏は無い




衆生近しゅじょうちかきをらずして

とおもとむる はかなさよ

生きとし生けるモノは
近くにある事を知らずに
遠くに求めてしまう
儚いことだ




たとえばみずの中にいて

かつさけぶがごとくなり

例えるなら水の中に居ながら
「喉が渇いた」と叫んでいるようなもの




長者ちょうじゃいえとなりて

貧里ひんりまようにことならず

億万長者の家の 愛し子と生まれながら

「貧しい」と迷っているのと違わない




六趣輪廻くしゅりんね因縁いんねん

おのれ愚痴ぐち闇路やみじなり

苦しみ迷う
六つの境涯(六種・六道)を輪廻する
直接・間接の原因は
自分自身の愚かさに囚われて
無明の闇路を歩いているからだ




闇路やみじ闇路やみじ

みそえて

闇路から闇路へと
無明に沿ってんで




いつか生死しょうじはなるべき


いつ
 生死をくり返す輪廻の輪から
離れるというのか




摩訶衍まかえん禅定ぜんじょうは 


それ
大乗仏教
(mahāyāna:マハーヤーナ、大きな乗り物)
心を集中させ(禅那:dhyāna/ディヤーナ
心を定める(定・三昧:samādhi/サマーディ
禅定というのは




称歎しょうたんするにあまりあり


どれだけ褒めたたえても

まだ及ばない(余りあり




布施ふせ持戒じかいの 諸波羅蜜しょはらみつ


布施や持戒
といった
大乗仏教の求道者(菩薩)が行うべき
諸々の波羅蜜修行徳目)や




念仏懺悔 修行等ねんぶつざんげ   しゅぎょうとう


念仏や懺悔といった

諸々の修行など




其品多そのしなおおき 諸善行しょぜんぎょう

多くの品目がある 諸々の善い行いは




みな このうちに するなり


全て この禅定の内に 帰り着く




一座いちざこうをなすひと

一度でも 坐禅を組み
禅定の境地に入る功徳(善い行い)を
人が為せば




みし無量むりょうつみほろぶ


積んできた計り知れない量の罪が 滅ぶ




悪趣何処あくしゅいずくりぬべき


悪行の末におちいる苦悩の世界(悪趣
何処に有るというのか




浄土即じょうどすなわち とおからず


仏たちが住む浄土の世界は

くない




かたじけなくも のり


おそれ多くも この大乗の仏法を




ひとたびみみに ふるるとき


一度でも 耳にした時に




讃歎 随喜さんたん ずいき するひと


感心し 誉め讃え

喜びの心を生ずる人は




ふく事 限こと  かぎりりなし


限りない福徳を 得るだろう




いわんや みずか回向えこうして


ましてや 自

積んできた善行の功徳を
自他にさしむけ(向)めぐさせた上で(回)



じき自性じしょうを しょうすれば


直接 本来の性質自性
明らかにすることが出来れば




自性 即じしょう すなわち 無性むしょうにて


存在するモノの本来の性質自性というのは
実体の無い 無自性であるから




すでに 戯論けろんを はなれたり

もうすでに
無意味で無益な言論・妄想(戯論から
離れている




因果一如いんがいちにょの もんひらけ


物事を相対的・対立的に見る 分別の妄想を超え
原因と結果を一つとする
無分別の 不ニの法門 開け




無二無三むにむさんの 道直みちなお

二も無く 三も無い
唯一の道が 真っ直ぐ 伸びている




無相むそうそうを そうとして

何物にも囚われない 有り様を
(自らの)有り様とする




くもかえるも 余所よそならず

行くのも 帰るのも 他ではない




無念むねんねんを ねんとして

何物にも執着しない 心の持ち方
正念:sammā-sati・mindfulness)を
(自らの)心の持ち方とするなら




うたうもうも のりこえ

歌うのも 踊るのも
為すこと全てが
仏法の声となる




三昧無碍さんまいむげの そらひろく

対象になりきる程 集中することで
作為や分別が無い状態となる
三昧(samādhi:三摩提・三摩地・等持・正定)
の境地では
さまたげるモノが無い 広大な空が 広がっている




四智円明しちえんみょうの つきさえん

諸仏に備わる 四種の智慧(四智)が 沸き出て
理性と智慧で満ちた(円明) 月が冴え渡る




此時 何このとき なにをか もとむべき

この時 何を求めるというのか




寂滅現前じゃくめつげんぜん するゆえに

煩悩や執着の炎が滅した(寂滅
あらゆる物事を あるがまま等しく見る
如実知見
本来の面目諸法実相の世界が
目前に現れ 広がっているのだから



当所 即とうしょ すなわち 蓮華国れんげこく

(迷ったり 悩んだりしている)
今 この場所が そのまま
蓮の花が咲きみだれる 極楽浄土となり




此身 即このみ  すなわち ほとけなり

(迷ったり 悩んだりしている)
この身が そのまま
となる




白隠(はくいん)禅師


生年
1686年1月19日(貞享2年12月25日)
没年
1769年1月18日(明和5年12月11日)

法名(ほうみょう) 及び 諱(いみな)
慧鶴(えかく)
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号(ごう)
鵠林(こうりん)
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明和六年
後桜町天皇から
神機独妙(しんきどくみょう)禅師
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明治十七年
明治天皇から
正宗(しょうしゅう)国師
勅号(ちょくごう)を下賜されています
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白隠禅師 年譜

駿河の浮島(静岡県沼津市)原の長沢家に生まれる
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15歳で郷里の松蔭寺で得度(出家)、
慧鶴(えかく)の諱を授かる
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全国を遊歴する
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24歳の時、越後(新潟県)高田にあった
英巌寺で大悟したと自称
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その際
信濃(長野県)飯山の
道鏡慧端どうきょう-えたん
(正受老人の名で知られる)
を知り、その指導を受ける
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駿河の松蔭寺に住しつつ
全国を行脚し講演するなど
禅の普及に努める
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享保2(1717)年、33歳の時
松蔭寺の住職となる
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享保3(1718)年、34歳の時
京都妙心寺の第一座となる
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その後も
50年近く
松蔭寺の住職を務め
50年近く
各地で
人々に 法を説く
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白隠禅師の禅の普及方法は
講演や坐禅指導のみならず
著作や書画など
多岐にわたるものでした
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駿河には
過ぎたるものが二つあり
富士のお山に
原の白隠

と謳われるほどの
功績をあげらた白隠禅師ですが
生涯を
黒衣で通されたと伝わっています

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隻手の音声

『ライ麦畑でつかまえて』で有名な
アメリカの小説家D,Jサリンジャー
その作品 ナインストーリーズの冒頭に
次の公案を載せています
We know the sound of two hands clapping.
But what is the sound of one hand clapping?
A Zen Koan
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両掌 打って音声あり
隻手に何の音声かある

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両手を打ち合わせると音がするが
片手だと 何の音があるか
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これは
白隠禅師が創作された
隻手の音声
せきしゅのおんじょう
という公案です
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白隠禅師は
このような
独自の公案を創作されました
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また
それまでの公案を
体系的に整理されたことでも
知られています
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白隠禅師は
衰退していた臨済宗を
復興されたため
臨済宗の中興の祖と称されています
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そのため
臨済宗の各寺院では
「白隠禅師 坐禅和讃」が
折に触れ 読誦されています

白隠禅師と 明石の禅寺 大蔵院

寛延3(1750)年の冬
66歳となられた白隠禅師は
請われて 明石の龍谷寺を訪れました
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そして
息耕録開筵普説」という
白隠禅師が話された事をまとめたモノを
人々に説かれた と伝わっています
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白隠禅師は その年を明石で逗留されたため
儒者で漢詩人として有名だった梁田 蛻巖
明石藩の家老など会われたことが
白隠禅師の年譜に記されています
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この白隠禅師の年譜には
「大解、白隠につっこむ)」
という章があります

この大解という人物は
当時の大蔵院住職 大解宗脱和尚のことです
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どうやら
明石に滞在中の白隠禅師を訪れ
つっこみを入れたようです

◆寛延庚午三年(一七五〇)六十六歳
◆春、東嶺は江戸に滞在/庵原大乗寺で碧巌録会/◆『槐安国語』刊行間近/◆明石龍谷寺での虚堂録会が決まる/貞永寺で『槐安国語』を開講/◆碓叟全能像 に著賛/◆松茸画賛を描く/冬、播州明石の龍谷寺で息耕録会/◆明石大蔵院の大解宗脱/◆大解、白隠につっこむ/◆白隠、梁田蛻岩と会する/◆家老の小倉 公/◆池大雅の来参/◆十二月十三日、明石から書簡

新編 白隠禅師年譜 (芳澤勝弘 編著 2016/03/10)から一部抜粋



年が明けると
白隠禅師は
明石を立ち 岡山へ向かいました
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大蔵院に伝わるところでは
大蔵院住職 大解和尚も
白隠禅師に同行し
岡山まで旅したと伝わっています

寺の花の写真


明石の禅寺 大蔵院
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© 2022 kenkozan Daizoin



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